ゆめやかた(夢館奥州藤原歴史館)の蝋人形ゾーンでは平泉と藤原氏の歴史を語る上で欠くことのできない大変重要なシーン・全30場面が臨場感溢れる様子で再現されています。
場面ごとに分かりやすい歴史解説もゆめやかた(夢館奥州藤原歴史館)の中心となる蝋人形(ロウ人形)ゾーンでは、歴史的に有名な場面、勧進帳で知られる『安宅の関』、壇ノ浦の合戦における義経の『八艘飛び』や『弁慶の立ち往生』といった歴史的に有名な瞬間を、30シーンにわたり再現し、当時の歴史を(写真でも映像でもなく)まさに原寸大で体感できます。平泉の歴史研究でも著名な考古学者による監修を受け、可能な限り当時を忠実に再現しており画期的な歴史資料館・教育施設として修学旅行や研修にもご活用いただいております。ぜひとも一度ごゆっくり鑑賞して頂きたいと願っております。さらに、ゆめやかたが導入した画期的な『タッチガイドシステム』をご利用いただきますと、シートにペンを押すだけで日本語・英語・中国語・韓国語の中から希望する言語の説明を聞くことができます。ここでは以下にゆめやかた(夢館奥州藤原歴史館)蝋人形(ロウ人形)ゾーンの30場面の中から一部をご紹介いたします。
【前九年の役】(蝋人形ゾーン場面1)
永承六年(1051)頃、当時、奥六郡(現在の岩手県地方)は安倍頼時が統治していた。本来、この地は朝廷の管轄地であったが、安倍氏は事実上の支配者として、自らの領土化し、独裁体制を強めていった。朝廷は、これを阻止するために、武勇の誉高い源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命し、安倍一族の討伐にあたらせた。この安倍頼時と源頼義との戦いは長期にわたり、「前九年の役」と呼ばれた。結局、この戦いは、出羽(現在の秋田県地方)の豪族清原武則(きよはらたけのり)が政府軍に荷担参戦することで終結し、安倍一族は滅亡した。
【出陣】(蝋人形ゾーン場面2)
天喜四年(1056)頃、「前九年の役」のまっただなかに、亘理(現在の宮城県亘理地方)の豪族藤原経清を父、安倍頼時の娘を母に、清衡(初代奥州藤原氏)は生まれる。官人である経清は、源頼義側につかねばならない運命にあった。経清の妻は、父の頼時と戦わねばならない夫の出陣を、幼い清衡を抱いて、不安な気持ちで見送るのであった。後に、経清は頼義を裏切り頼時側についたため、戦は長期化することとなる。
【斬首】(蝋人形ゾーン場面3)
康平五年(1062)、厨川柵(現在の盛岡市北部)にて安倍一族は滅亡し、「前九年の役」は終結する。源頼義を裏切った経清は捕えられ、処刑にあたりわざと鈍刀をもって、大きな苦しみを与えながら斬殺された。
【母再嫁】(蝋人形ゾーン場面4)
安倍一族が滅亡し、父も殺され、その血筋から救われるはずのない清衡であったが、母が勝利者側である清原武則の嫡男武貞のもとに再嫁することで生き延びる。この頃清衡七歳と推定される。生き延びたとはいえ、父の仇のもとで暮らすことになるとは皮肉な運命であった。
【清衡少年時代】(蝋人形ゾーン場面5)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面5
康平六年(1063)、「前九年の役」の論功行賞により、清原武則は鎮守府将軍に任ぜられ、出羽に加え陸奥をも所領とし、飛躍的に権勢を拡大した。幼少の清衡は、義父武貞の先妻の子真衡、母と武貞の子家衡と、それぞれに父母の違う複雑な家庭の中で成長していった。三兄弟は成長するにしたがって確執が深まっていくことになる。
【後三年の役】(蝋人形ゾーン場面6)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面6
「前九年の役」の後、約20年の間武則から武貞、真衡と続く清原氏であったが、その統治に対する一族内の不満がしだいに高まっていった。真衡の養子成衡の婚礼祝いに参上した一族の長老、吉彦秀武は自分に目もくれず、奈良法師と囲碁を打ち続ける真衡の態度に腹を立て、献上した砂金をぶちまけて帰ってしまう。これを契機に清原一族は内紛を起こし、世に言う「後三年の役」へと向かうのである。
【清衡闇討ち】(蝋人形ゾーン場面7)
朝廷は奥州に再び戦火があがったことを知ると、前の陸奥守鎮守府将軍源頼義の子・義家を陸奥守に任命した。義家が真衡に荷担したため、対抗していた清衡と家衡は降伏を申し入れるが、同じ頃真衡が急死したため、「後三年の役」は一応停戦を迎える。しかし、停戦後の所領分配に不満を持つ家衡は、ある日、清衡の住む豊田館を奇襲する。清衡は堀に飛び込み、危うくも逃げ延びる。
【後三年の役勝利】(蝋人形ゾーン場面8)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面8
清衡は義家の援軍を得、家衡を討つために挙兵した。ある日、金沢柵(現在の秋田県平鹿郡地方)近くの西沼で、義家は全軍に停止命令を出した。「空飛ぶ雁が列を乱したときは伏兵あり」という兵法を教え、兵が潜んでいるだろう草むらに火をかけたところ、不意をつかれた家衡軍は陣を乱して逃げてしまった。これを機会に清衡軍は一気に家衡の金沢柵を落とし、清原氏は全滅した。ここに「後三年の役」は清衡の勝利で幕を閉じた。寛治元年(1087)であった。
【祝宴】(蝋人形ゾーン場面9)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面9
陸奥守義家は「後三年の役」に勝利するが、朝廷はこの戦いを清原一族の私闘とし、義家に恩賞を与えるどころか、陸奥守を解任してしまった。安倍・清原両氏の遺領をそっくり受け継ぐことのできた清衡は、都に帰る恩人義家のために、祝宴を催し、金・絹・馬・鷹の羽・水豹の皮などの奥州特産物を献上しねぎらった。これ以降、義家は京における清衡の庇護者となり、京と奥州を結ぶ重要な存在となる。
【義経・平泉入り】(蝋人形ゾーン場面18)
三代秀衡は嘉応二年(1170)鎮守府将軍、養和元年(1181)陸奥守に任ぜられ奥州における最高の公権を手にし、まさに「北方の王者」となる。その頃、「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の子、義経が金売吉次なる人物に伴われ、秀衡を頼って平泉に下ってきた。義経十六歳の頃である。そんな義経を、秀衡とその子四代泰衡が伽羅御所前で迎えた。
【義経・青春期】(蝋人形ゾーン場面19)
義経は十六より二十一までの多感な青春時代を、秀衡の手厚い庇護のもと、平泉で過ごす。打倒平家、源氏再興を胸に秘め、秀衡の息子、国衡・泰衡・忠衡とともに、日々武芸の鍛練に励むのであった。同時に、この六年間が、波瀾に満ちた義経の生涯のなかで、最も充実し、穏やかに過ごした日々であった。
【義経・出陣】(蝋人形ゾーン場面20)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面20
義経は治承四年(1180)兄頼朝の平家打倒の挙兵を知り、ただちに馳せ参じようとする。義経の参戦に乗り気でない秀衡は思い止まらせようといさめるが、義経の決心は固かった。そこで秀衡は近親の勇、佐藤継信、忠信兄弟を家臣につけ、同行させるのであった。早朝、伽羅の御所の前で、義経一行の旅立ちを不安そうに見送る秀衡の姿があった。
【西行弦師】(蝋人形ゾーン場面21)
西行は秀衡の遠縁にあたるともいわれ、その生涯のうち二回奥州に下向し、平泉を訪れている。二度目は東大寺大仏再興のため、秀衡に五千両の寄進を依頼するという任務のためであった。束稲山の桜に感嘆し、「ききもせず、たはしね山の桜花吉野の外にかかるべしとは」と詠んだ。
【阿弥陀如来】(蝋人形ゾーン場面22)ゆめやかた蝋人形ゾーン場面22
秀衡が建立した無量光院は、中尊寺、毛越寺とならんで、平泉文化を代表する寺院で、新御堂とも呼ばれていた。京の宇治平等院鳳凰堂を模し、本尊の像高丈六(約2.4メートル)の阿弥陀如来であった。秀衡はこの阿弥陀如来の前にたたずみ、ひたすら平泉の平和と安泰を願ったことであろう。
【壇ノ浦の合戦】(蝋人形ゾーン場面23)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面23
奥州の平和とは反対に、西国では源平合戦がなお激しく続いていた。義経は得意の奇襲戦法で平家を一の谷(現在の神戸市内)、屋島(現在の香川県高松市内)壇ノ浦(現在の山口県下関市内)へと追い詰めた。義経の鮮やかな戦いぶりはよく知られているが、壇ノ浦の合戦での、身軽に船を飛び越え、敵を次々と討ち取ったというこの『八艘飛び』は、有名である。
【安宅の関】(蝋人形ゾーン場面24)
平家滅亡に際して数々の戦功を挙げた義経は、京に凱旋し、後白河法皇をはじめとする朝廷から賞賛を浴び、官位を授かる。しかし、しだいに兄頼朝との確執を深めるようになり、ついには頼朝は朝廷から義経追討の宣旨を受け、兵を挙げる。兄に追われる義経は秀衡を頼り、再び平泉へと落ちていく。義経一行の苦難の旅は様々な芸能でも題材とされているが、能の「安宅」、歌舞伎の「勧進帳」で取り上げられた安宅の関(現在の石川県小松市内)での義経と弁慶の名場面は、あまりにも有名。
【再開】(蝋人形ゾーン場面25)
文治二年(1186)末~文治三年(1187)春頃、頼朝に追われ、苦難の末、わずかな郎党とともにようやく平泉にたどりついた義経を、秀衡は温かく迎えた。しかし、義経を庇護することは同時に頼朝を敵にすることでもあった。
【秀衡病没】(蝋人形ゾーン場面26)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面26
義経が平泉に来て一年もたたない文治三年(1187)十月二十九日、秀衡が病没した。享年六十六歳と伝えられている。京を追われ、秀衡をたよって平泉に下った義経にとって秀衡の死は大きな衝撃であった。秀衡があってこそ、頼朝にも対抗できたのであるが、その死によって、平泉と鎌倉の緊張関係はますます高まった。
【弁慶の立往生】(蝋人形ゾーン場面27)
ゆめやかた蝋人形ゾーン場面27
秀衡の後を継いだ四代泰衡のもとに、頼朝は繰り返し義経追討を迫ってきた。秀衡の遺言を守り、義経を守り立てて平泉の安泰を図ろうとする者と、頼朝の命に従おうとする者が対立する。文治五年(1189)泰衡は義経擁護派の国衡、忠衡らを討ち、義経の住む高館を奇襲する。不意をつかれた義経は、弁慶らの必死の奮戦もむなしく、妻子とともに自害する。身体中に矢を受けながらも仁王立ちになり、義経を守ろうとする弁慶の姿は、「弁慶の立往生」として語り継がれている。
【奥州藤原氏の滅亡】(蝋人形ゾーン場面28)
頼朝の圧力に屈し、父秀衡の遺言を破り義経を自害に追いやった四代泰衡だが、今度は、義経をかくまったという罪で鎌倉軍に攻められることになる。文治五年(1189)夏、頼朝に追われる泰衡は、自ら平泉館に火をつけ、さらに北へ逃げるが、腹心の家臣河田次郎に討たれ、ここに約100年の間奥州に君臨した藤原氏は滅亡するのであった。
【平泉・炎上】(蝋人形ゾーン場面29)
頼朝率いる鎌倉軍が平泉に入った時には、町も居館も炎につつまれていた。焼け残った蔵からは様々な財宝が発見され、鎌倉武士たちを驚かせたという。また、平泉の景観は頼朝に深い感銘を与え、鎌倉での寺院造営の手本となったのである。
【夢の跡~奥の細道】(蝋人形ゾーン場面30)
藤原氏が滅亡後五百年。江戸時代の元禄期を迎えた頃、伊達藩の所領となった平泉に、俳人松尾芭蕉が弟子曾良を伴い訪れた。芭蕉は覆堂につつまれた金色堂を見て、「五月雨の降り残してや光堂」と詠み、また、幾度もの戦乱のあった古戦場を眺めて、「夏草や兵どもが夢の跡」という名句を残している。




